礼拝説教


3月25日

マルコによる福音書5章1〜20節


回復の物語

平良 師

 イエス様が十字架におかかりになったのは、午前9時でした。そして、昼の12時から午後3時まで、全地は暗くなり、そして、午後3時に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われ、ある者が酸いぶどう酒を飲ませようとしたときに、再びイエス様は大声を出されて息を引き取られました。そのとき、百人隊長がイエス様の方を向いて立っていて、このように息を引き取られたのを見て「本当に、この人は神の子だった」と言ったのでした。信仰の告白です。
 信仰は、何を体験したというので、何を見たというので、何を聞いたというので、そのように告白するのか、それは人それぞれです。私たちの教会は、その個々の信仰に対しては、とてもゆるい教会です。私たちの保持している教会の信仰告白には、「この信仰告白は、何人の信仰をも制限することなく、あかしとして又、はげましとしてこれを宣言いたします」と序にありまして、個々の信仰をこれでしばることを避けているのです。
 つまり、ある程度の基準らしきものは教会の信仰告白で共有できたらいいかと思いますが、平尾教会は、互いの多様性をとても大事にしていこうという、まさにバプテスト的な教会だと誇りに思っています。それは、バプテストは信条を持たないというバプテストの伝統や主義と関係があります。ところで、信条という言葉は、信仰告白といった言葉と似ています。
 例えば、日本基督教団は、使徒信条というものを持っていて、これを礼拝のなかで、唱和しておられると思います。それは、教団全体が、一つの大きな教会といった理解がありますので、どこの教会もこの使徒信条を教会の信仰告白、つまり、私たちは何をどのように信じているのかを礼拝のなかで皆で読み上げ、信仰の中身を確認し、一致を図っているのです。
 バプテストは、信条を持たないかわりに、教会の約束とかいったものがあり、これによって、契約共同体としての教会のありようを互いに共有しております。つまり、アメリカのバプテストなどは、教会員になるときに、この教会の約束にサインをして、それから、入会が認められるということになります。
 ちなみに、日本バプテスト連盟が発行している教会員手帳というものがあります。この中に、参考用として、2002年の連盟理事会で採択された教会の約束を載せております。「わたしたちは神の恵みによって、イエス・キリストを主と信じ、バプテスマを受けて、主の教会に加わったので、聖霊の導きによって、喜んで互いにこの約束をいたします。わたしたちは、主にある兄弟姉妹の愛をもって愛し合い、互いの喜びと悲しみを分けあいます。わたしたちは、教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じます。主の日の礼拝、そのほかの教会の諸集会につとめて出席し、教会の交わりのきよくなること、栄えることを祈ります。わたしたちは、バプテスマと主の晩餐の二つの礼典、また聖書の教えと、教会の定めた秩序を守ります。わたしたちは、この教会を支え、全世界に主の福音をのべ伝えます。そして、神のみ旨の行われるために喜んで献金を致します。個人的な祈りと、家庭の礼拝をつとめ、神よりあずかった子どもたちを、神のみ旨にそうように教え、また、隣人を救い主に導くため、よい証しをたて、主と会う日まで、この約束を固く守ります」。
 私たちの教会は、ミッションステートメントというものを作成しましたので、これが、ある意味では、教会の約束に一番近いものであろかうかと思います。週報の中に挟んでいる裏面に載せてあります。ですから、バプテストは、信条、信仰告白よりも、むしろ、こうした教会の約束、ミッションステートメント(使命宣言文)で教会の一致を図り、教会を作ってきた教派と言えます。
 それで、他の教派に比べ、互いの信仰は、より自由であってよいという立場を保ち続けてきているのだと思います。日本バプテスト連盟に連なっている教会のいくつかは、それで教会の信仰告白を保持しておりません。しかし、だからといって、各個人は、洗礼(浸礼)を受けるときに、信仰告白をしなくてもよいかというと、そうではありません。それは、自覚的な信仰を持った者に対してのみ、洗礼は施すことになっているからです。
 そして、その際、バプテスト教会では、その信仰のなかみは、かなり、広く、ゆるく、多様性を認め合うという観点から、バプテスマ対象者を見なければならないということになります。ですから、つい最近まで転入会式やバプテスマ式のときに述べていた「この方の信仰告白をお聞きになって、これが皆さんのもっている信仰とほぼ同じであり、・・」という私の問いの立て方は、ちょっと間違っていたと、今認識を改めているところです。
 ですから、今は、「この方の信仰をお聞きになって、私たちの教会に迎え入れてもよいと思われる方は、挙手してください」としております。厳密に申しますと、これからは、このミッションンステートメントを理解してもらうことも、バプテスマの準備を進めるときの大きな学びのときとなることでしょう。そういうわけですから、信仰そのものに対しては、それぞれが、それぞれの信仰にかなり責任をもつということになります。信仰告白ということで、ちょっと長くなりましたが、本日は、「信仰を告白する」というテーマですので、バプテスト派にとっての信仰告白ということで、説明をさせていただきました。
 さて、百人隊長が、イエス様のことを「神の子」と告白をしたときに、誰もが、納得できる情景が、そこにはあったのでしょうか。マルコにはイエス様のそれらしき姿は描かれていません。ところが、マタイでは、百人隊長や一緒に見張りをしていた人たちが、地震やいろいろの出来事(岩が裂け、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた。墓のなかで、聖なる者たちが生き返った)を見て、非常におそれて、「本当に、この人は神の子だった」と告白したことになっています。
 この二つの福音書においても既に、何を見て、イエス様をそのように告白したかが、マルコとマタイでは違っているのです。聖書自体が、私たちに多様な解釈を許しているということがわかります。ちなみに、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことはここにいる人々には距離が離れていましたのでわからなかったでしょうし、墓の中で聖なる者たちが生き返ったというのですが、彼らが墓から出てきたのは、イエス様が復活した後になっていますので、これもまた、このとき、十字架のもとにいる人々には、知るよしもありませんでした。
 マルコでは、十字架につけられてからの一連のイエス様の様子しか、描かれていません。そして、直接には、何かを大声で叫ばれて息を引き取ったその姿を見て、というニュアンスになりますが、マタイでは、地震やその他のいろいろな出来事を見て、恐れて、そのような告白に至ったことになっています。聖書を読んだ者たちが、納得できるのは、マタイによる福音書の方でしょう。
 そこで、考えます。マルコによる福音書では、このようなイエス様のお姿をみて、それは、十字架を運ぶときから、既に力なく衰弱しておられたと思われますが、それでシモンというキレネ人にそれを負ってもらうしかなく、さらに二人の強盗を右と左において、真ん中の位置で十字架につけられたあとは、そこを通りかかる者から、頭をふりながらののしられて、「おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と侮辱され、祭司長や律法学者たちは一緒になって「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」と侮辱し、それに対して、イエス様は、何もおっしゃらず、いよいよ息を引き取られる前に、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と全き絶望とおぼしきことを大声で叫ばれ、それで、酸いぶどう酒を飲ませようとした人もおりましたが、それも受けることなく、しばらくして再び、大声を上げられて、息を引き取られました。
 そのとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに下まで裂けたというのですが、もちろん、イエス様が十字架につけられているところからは、先ほども言いましたように神殿まで距離があるのですから、そこにいた人々には、知るよしもありません。もちろん、この死刑執行の指揮をとっていたであろう百人隊長もしかりです。
 聖書は告げています。「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引きとられたのを見て、本当に、この人は神の子だった、と言った」。これは、とても、不思議なことです。彼は、イエス様の何をずっと見ていたのでしょう。マルコで描かれているローマ軍の百人隊長の目に映っていたのは、イエス様の弱さ以外、何があったのでしょうか。おそらく、他人が、見て、よきもの、優れたものと思われるようなものは、何一つなかったはずです。
 しかし、そこにこそ、この百人隊長は、メシア、キリスト、神の子としてのお姿を見たのであります。百人隊長は、兵士たちを指揮する立場にあります。イエス様が十字架をかつげなくなり、そこを通りかかったキレネ人のシモンに、イエス様にかわって十字架を担がせるよう指示したのも、また、十字架につけるために、大きな杭を両手と足に打ち込むのを指示したもの、また、イエス様の服を兵士たちが分け合うのを見ていたのも、また、「ユダヤ人の王」という罪状書きを取り付けるのを指示したのも、この百人隊長であったのではないでしょう。
 彼は、この十字架につける一連の仕事に、手を染め、加担した一人でありました。イエス様の死刑執行の責任を負わされ、一番近くで、イエス様を見ておりました。このとき、彼ほどに一番近くにずっといた者はいなかったのではないでしょうか。その彼が、告白したのです。「本当に、この人は神の子だった」。
 私たちも、間近で、この一連のイエス様の十字架における死を見ていたならば、そう告白したかもしれません。そして、そういうときの自分は、この百人隊長であります。あの、とおりすがりの人々でも、祭司長や律法学者でもありません。百人隊長です。彼が、イエス様を十字架につけた、もちろん、彼は命令に従っただけでありますから、張本人ではありません。
 しかし、直接には彼が、つけたのです。そこに自分を見出すときに、私たちは、百人隊長と同じく、「本当に、この人は神の子であった」と告白するかもしれません。イエス様の無力でなさけないお姿を見つめつづけ、絶望のうちに死んでいかれたイエス様を見ていたならば、そして、そのようにこの自分がイエス様を十字架につけているということに気づいたならば、私たちもまた、このお方に主告白をしたのではないでしょうか。
 聖書はまた、こうも語っているのだと思います。わたしたちはイエス様のどこに神の子としてのお姿を見出すべきなのか、それは、まさしく、十字架におつきなり、苦しまれ、力なく、弱く、そして、侮辱され、ののしられながら、神様からも見捨てられ絶望のうちに死んでいかれた、このお方にこそ、メシア、キリストとしての真のお姿を見よ、というメッセージが込められているということです。そして、そこにたたずんでいたのは、イエス様を死刑執行した百人隊長、この私であるということです。
 また、このあと、アリマタヤ出身で議員のヨセフが、遺体の引き取りを願い出ましたが、こうした行為もまた、信仰の告白の行為です。このときのヨセフにとって、イエス様との関係を証しするものになりますから、たいへん勇気のいることでした。おそらく、ヨセフは、身分の高い議員とありますから、最高法院の議員の一人ではなかったのかと考えられておりまして、そうしますと、その最高法院で裁判が行われ、神様を冒涜したという罪で、有罪の判決がくだったのですが、そのときのことがこう書かれています、14章の64節「一同は、死刑にすべきだと決議した」。
 誰も反対しなかったというのです。このヨセフも、賛成をした一人であったことがわかります。しかし、ほんとうは、ヨセフは、神の国を待ち望んでいた一人でした。しかし、彼は、他の議員と同じように、イエス様を死刑に処すべきとの意見に賛成した一人でもあったのです。このとき、彼は、自分の身を守ったのでした。このヨセフもまた、自分がイエス様を十字架につけた、そうした意識を持っていたはずです。
 そして、十字架で死んだこのイエス様を、このとき、埋葬できるのは、自分にしかいないと考えたのではないでしょうか。否、是非、そうしたいと思い、総督ピラトに直々に遺体の引き取りを願い出たのでした。そうでなければ、死体は、どこかの共同墓地に埋葬されたか、どうなるかは定かではありませんでした。このヨセフの行ったことも、これもまた一つの信仰の告白でした。
 告白には、口での告白もありますが、こうした、ヨセフのように行為でもってする告白もあるということがわかります。キリスト者で、行為をとおして、主告白をしている人々は山ほどいます。今日、ここに集っている御一人御一人もまた、そうでしょう。教会もまた、教会の宣教活動、ミニストリーの働きをとおして、主告白をしています。マルチンルーサーキング、マザーテレサ、中村哲さんなどの働きは、まさに、直接口で、イエス様を主と公に告白しているわけでありませんが、自分たちの行為、他者に向けられた行為をとおして、イエス様が主であることを、イエス様がどのようなお方であるかを、告白しているのです。
 アリマタヤのヨセフが、このあと、どのような扱いを受けるかは、わかりませんが、彼の身の上に危険が迫ることは間違いありません。それでも、彼は、そうしたいと思ったのでした。自分もまた、イエス様を十字架に追いやった一人であるといった意識を持ちつつ、彼は、今こうして、イエス様を主と告白するに至ったのでした。
 弟子たちもそうです。イエス様をあからさまに主と告白したのは、もちろん、後に、復活のイエス様に再会したということもありますが、それ以前に、イエス様を裏切り、十字架につけてしまったという罪の意識があったことと無関係ではないと思っています。
 私が、もし、百人隊長だったから、命令だからと、イエス様を十字架刑に処するための一連の工程をこなしたことでしょう。私が、もし、最高法院の議員の一人であったヨセフだったら、自分の身にふりかかる危険を避けるために他の議員に歩調を合わせ、イエス様の有罪判決に賛成したことでしょう。私が、もし、弟子の一人だったら、あのとき、イエス様を見捨てて逃げ出してしまったように、私もまた、逃げてしまうことでしょう。
 そこに何を見るのか、十字架というそこに、わたしとイエス様の関係を私たちは見るのです。そのとき、主告白が生まれる、私は、そういいたいのです。「本当に、この人は神の子だった」。この方が、この方を裏切り、この方をあざけり、この方を十字架につけるほどの私の深い罪をすべて負ってくださった、そういう気持ちが私には生まれます。
 私たちキリスト者が、何ゆえ、弱さや貧しさのなかに主イエスを見るのか、それは、すべて十字架ゆえのことであって、ここが私たちとイエス様の接点であって、こここそが、私たちの強さであり、豊さです。この十字架の主こそ、私の主であり、救い主であり、神です。これが、私の信仰の告白です。


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