礼拝説教


7月1日

創世記 12章1節〜9節


主の言葉に従って旅立つ

平良牧師

 アブラムは、他の二人の兄弟ナホルとハランと共に、彼らの父のテラが、70歳になったときに生まれた子供でした。そのあと、ハランは父のテラより先にカルデアのウルで死に、ナホルという息子はどうなったかは書かれていません。しばらくして、テラは、息子アブラムとハランの息子で孫のロトとアブラムの妻サライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かい、ハランという土地に定住します。

 それが、いつ頃だったのかは、わかりません。カルデアのウルというのは、当時は、大きな都市でしたので、ここを離れて、カナン地方に向かうには、何らかの理由があったわけでしょうが、それは記されていませんのでわかりません。しかし、都市というのは、それなりに便利ではあったはずでありますから、そこから離れて、見ず知らずの土地へ向かうというのは、それなりの理由があったのでしょう。

さて、アブラムの父テラは205年の生涯だったとあります。息子のアブラムが、その父を残して、そのハランを出発したのが、アブラム75歳のときだったとありますから、そのあと、テラは、ハランで60年間過ごしたことになります。アブラムは、父テラが死んだことを区切りとして、ハランを旅立ったのではなく、まさに、主の召命によって、父テラの存命中に、父親をある意味では捨てた形で旅だったことがわかります。

 イエス様のお言葉のなかに、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)とありますが、これは、父母や子どもたちへの愛が否定されているわけでありません。しかし、イエス・キリストを愛する以上に、誰かを、あるいは何事かを愛すること、選び取ることは、イエス様にふさわしくないと言っているのです。そういうことで考えてみますと、アブラムのとった姿勢は、信仰者としてはあるべき姿であったとも言えるのです。神様のみ言葉に従ったのですから。

 アブラムは、このとき父親を置いて旅立ちました。否、それは捨ててといってもいいほどのことだったに違いありません。彼は、このとき、それまで蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々、おそらく僕たちだったと思いますが、彼らもすべて連れてカナン地方へ向かって旅立だったのでした。

 イエス様が、ペトロに、あなたを人間をとる漁師にしようと、弟子として召されたときは、彼は、父親も漁師の道具もすべておいてとあり、すべてを捨ててということでした。また、ペトロ自身が「このとおり、わたしたちは、何もかも捨ててあなたに従って参りました」とマタイによる福音書の19章27節で言っています。

 ラブラムが生きた時代状況を考えてみますときに、長年慣れ親しんだ土地を捨てて、他の土地へ行くなど、しかも、そこがどういう土地かもわからないままに、今いる土地を離れるなど、とても危なくて考えることは普通できなかったのではないでしょうか。見ず知らずの土地へ行くというのは、自分たちを守ってくれる知人もおりませんし、生活していけるという何の保証もないわけですから、命がけのことであったはずです。敵意を抱いた何者かが、襲ってくればそれでお仕舞です。

 ですから、75歳のときに、彼が、父親と長年過ごし、財を築いてきた土地ハランを出たというのは、考えられないことでした。そういった意味でも、ハランで蓄えた財産をもって、また、妻のサライや甥のロト、また、その土地で与えられた僕たちをすべて引きつれて旅立ったのは、致し方のないことだったとも言えるでしょう。すべてを捨ててというわけにもいかなかったのです。しかし、弟子としての心がけとしては、すべてを捨ててというイエス様のお奨めは、やはり心にとめておきたいと思います。

 ですから、アブラムの身にこのことが起こったのは、彼の考え、計画というよりは、確かに、神様の召命が彼の上に臨んだとしか表現できないようなものがあったのでしょう。創世記12章1節、「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。真実にこうした召命をいただいたということです。

 ひょっとしたら、アブラムの父親のテラがそれまで住んでいたカルデアのウルを旅立ったのも、神様の「ここを発って、わたしの示す地に生きなさい」という示しがあったのかもしれませんが、大きく違うのは、アブラムの場合は、父の家を離れてとあるように、父親との決別を意味しているような内容が述べられているということと、そのことによって、彼に神様からの土地が与えられること、そして、そのアブラムの行為によって、アブラムが、神様から大きな祝福をいただくことになること、諸国民が、アブラハムによって、神様からの祝福を受けることができることが、述べられているところが違います。

 それは12章2節からのところに書かれています。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。何と、大きな祝福の約束でしょうか。そして、アブラムは、神様の言葉が、彼に臨んだとき、その大きな神様の祝福の約束を信じ、そして、事を起こしたのでした。

 「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあります。ここに信仰とはどういうことかが述べられています。神様のみ言葉を聞いて、信じ、ことを起こすということです。神様から示されたことを信じるのです。神様から示されたことに、或いは、聖書に書かれているそのみ言葉に聞き従うのです。神様が何ごとかをもって、あなたに神様の御心を示されたにもかかわらず、或いは、聖書のみ言葉をとおして、今、このときに、あなたにこれからなすべきことを示されたにもかかわらず、もし、それに従わないならば、その人には、信仰による人生は始まらない、信仰の世界が開かないのではないでしょうか。

 相変わらずの日常生活のなかにこの世における生活のなかに留まり続けることになってしまう、そういうことではないのでしょうか。神様の示してくださったことに従う、聖書をとおして神様のみ言葉に従う、そのときには、たとえ、それまでとは変わらぬ職場や家庭や学校であったとしても、この世の人々が常識として捉えている価値観や考え方に固執せず、もっと自由に、神様からいただく、ものの見方や考え方、価値観によって、物事を判断できたり、考えることができるということです。別の世界が開かれている、それは、神の国に生きる者となった、といったようなことであるかもしれません。

 ヘブライ人への手紙11章の8節には「信仰によって、アブラムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」とありますが、まさに、このときのアブラムの行為が信仰であったと思うのです。

 しかし、そうやって出発したアブラムでしたが、その後、どうなったかと言いますと、彼らは、カナン地方をまずは目指しました。この行先は、父親のテラが、ハランに到着する前に目指した土地でした。しかし、テラは、ハランまで来たときに、そこに定住することにしたのでした。そのようなこともあり、アブラムの頭の中には、この時点ではどこが神様の示される土地であるかは、告げられてはいませんでしたから、父親が目指そうとしていた場所が頭にあったのでしょう。

 それで、アブラムもカナン地方を目指して旅立ったのでしょう。カナン地方は、現在アブラムたちがいたハランよりも更に南でした。そして、ついに彼らはカナン地方に入りました。アブラムは、その地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木までやってきました。そのとき、神様はアブラムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われたのでした。シケムの聖所とは、これは、このときまでは異教の神々を祀ってあったところだと思います。

 そのような場所として有名だったと思われます。そして、アブラムは、ここで現れた主のために、祭壇を築き、礼拝を致しました。おそらく、この後から、この場所は、イスラエルの人々にとっての聖所にとって変ったのだと思います。ところが、「この土地を与える」と言われたものの、そこには既に先住民としてカナン人が住んでおりました。それで、簡単にはアブラムは、この土地を自分のものにすることはできなかったのです。

 ですから、彼は、戸惑いをおぼえながらも、どうすることもできず、そこからまた南に位置していたベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望むところに天幕を張ったとありますので、しばらく、そこに滞在することにしたのでした。そして、そこにも祭壇を築き、主の御名を呼んだとありますから、つまり、礼拝を捧げたのでした。しかし、それからはずっとそこにいたかと言いますと、そこもしばらくの間だけで、「アブラムは、更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った」のでした。

 ネゲブというのは、ベテルよりもさらに南になります。ですから、そこはもう、神様の示す土地ではありませんでした。彼の旅は、もはや神様に従う旅ではなく、自らの考えに基づいた旅となってしまったのです。

 今日は、12章の1節から9節までですが、このあと、10節を読みますと、そのたどり着いたネゲブで、どうなったかが書かれています。そこでは飢饉が起こりました。それで、彼は、「その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」とあります。

 アブラムは、最初は、もちろん、神様のみ言葉によって、神様の呼びかけによって、父とこれまで生活してきたハランを旅立ったのです。そして、確かに、カナンの地に入り、シケムまで来たときに、神様の御声があって「あなたの子孫にこの土地を与える」と告げられ、ここがその約束の地であることを示されたのでした。にもかかわらず、何ゆえ、彼は、そのシケムに留まることをしなかったのでしょうか。どうして、示されてもいない土地を転々とすることをしたのでしょうか。

 そこが問題です。そして、ここにこそ、私たちが信仰を考えるときの大きな課題があるのだろうと思うのです。それは、私たちは、たとえ、それが神様の御心と思われても、それができない、それを成そうとしない、自分がいるということなのです。アブラムは、既に住んでいるカナン人と話し合うということすらしようとしませんでした。確かに、歴史的には、力の強い国々が、先住民が既に住んでいたところへ入っていって、自分の土地にしたということは数限りなくあったと思われます。

 それは赦されることなのでしょうか。そのことを問われれば、今の時代に、赦される、なんて答える人は、ほとんどいないと思います。ですから、争いを避けて、よその土地に行ったということは、正解だったとも言えるかもしれません。しかし、そうやって、そこを逃れ、ベテルの東の山へ移ったのですが、そこも去ったというのは、また、そこに住み続けることのできない何かの事情が、あったのでしょう。

 そして、さらに南下して、ついにネゲブ地上に移り住みます。ところが、ここでは飢饉が起こりました。それもひどい飢饉であったとあります。それで、アブラムは、エジプトに逃れることにしたのでした。

 神様から「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われたら、神様が示された約束の土地であったというだけでなく、それは、神様の約束の成就でもあるのですから、そこに住むことは何が何でも、成し遂げることが必要なことだったのではないでしょうか。もちろん、争いも予想されたでしょうし、争いにならない方法もまた、あったかもしれないのです。このときまで、アブラムは、多くの財産を持っていたと思われます。それとの交換で、土地のいくらかでも買い取って、住むということは考えられなかったのでしょうか。

 少なくとも、シケムに住むということをこのときのアブラムは、まったく考えていないという感じです。神様から示されているものは、はっきりしているけれども、それを行う勇気がない、努力もしようとしない、そして、ついには、神様の示される道とは違う自分が考える道を歩もうとするのです。これは、信仰者としては、とても危ういことです。

 イエス様は、マルコによる福音書5章36節で「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。このときのアブラムは、あれこれと恐れたのです。それで、カナン地方に来て、神様からここだと言われても、そこに住むことができず、神様がこの土地だと言われるのに、この土地は、私のイメージしていた土地とは違う、こんなごみごみしたところではない、こんな殺風景なところではない、こんな痩せた土地ではない、こんな雑木林が生え茂っているところではない、などなど、さまざまな不安や不満、納得しがたいことなどあって、アブラムは、カナン地方そのものからもはずれた地域に住むことになるのです。

 今日まで、神学校週間です。原田仰神学生もまた、神様から、ここだとの召命をもらったはずです。そして、それに応答されました。およそ、牧師をしている者たちは、そうした召命に与ったといった思いを与えられています。否、他の信徒の方々でも、何らかの形の神様の示しをいただいていると思います。問題は、ここにやってきたけれど、そこが自分の思うところとは違った、自分にとっては厳しさを感じさせるところでしかない、そういうとき、この物語を読み返したらよいかと思います。

 神様が示されたのであれば、それ以上のところはありません。神学部の学びは、牧師として立つための基礎的で重要なことを教えてくれるはずです。それまでの自分ではおれなくなる可能性は十分にありますが、それでも、神様がここだと示されるのであれば、この地に腰を下ろすべきなのです。そしてまた、この教会が今、皆さんに示された土地であるのなら、何が何でもここから離れないでいただきたいのです。

 ある方にとっては、今、この地は、アブラムがそうであったように、心配ごとや満たされない思いであふれているかもしれません。しかし、ここから離れてはならないのです。もし、今、ここが約束された土地として、示されているのであれば、何とか歯を食いしばって欲しいのです。なぜなら、神様は、この地に住むあなたを大いに祝福してくださるからです。その神様の祝福を信じましょう。その祝福を大いに期待しましょう。

 私たち信仰者は、「主の言葉に従って旅立つ」た存在であり、その旅立つという行為によって、祝福に与り、そして、その示された土地でさらに祝福が増し加えられていくのです。しかし、それでも、人によっては、何かのときに、ここを離れ私が示す土地に行きなさいとのみ声が聞こえてくるかもしれません。そのときには、さらなる決断をしなければならない、それもまた、信仰者としては応答していかなければならないのです。


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