礼拝説教


4月1日

マルコによる福音書16章1〜8節


あの方は復活なさって墓にはおられない

平良 師

 イエス様の時代の墓は、岩をくり抜いて作ったものでした。アリマタヤのヨセフは、イエス様の遺体を十字架から降ろして、亜麻布で巻いて、墓の中に納め、墓の入り口には、石を転がしておきました。ふたとして用いられたこの石は、非常に大きかったとあります。
 イエス様が、十字架におかかりになったときに、幾人かの婦人たちが遠くから見守っていたとあり、その中に、ガリラヤからイエス様と弟子たちのお世話をするためにつき従ってきていた、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そして、サロメがいました。聖書には、他にもこのように、ガリラヤからイエス様につき従ってきていた女性たちが、大勢いたとあります。
 男の弟子たちよりも、女性の弟子たち(12人とは違う形の弟子)の方が、多かったかもしれません。教会には、最初のときから、女性の方が多いようです。そして、イエス様が墓に葬られたときにも、マグダラのマリアとヨセの母マリアは、遺体の納めた場所を見つめておりました。ユダを除く弟子たちは、イエス様が捕縛されたときに逃げ去ったことはわかっていますが、その他にもイエス様につき従ってきていた男たち、まあ、準弟子といってもいいかと思いますが、そのような男たちもいたかと思います。
 その一人が、イエス様を捕えにきた大祭司の手下の一人に打ってかかり、片方の耳を切り落としたと考えられます。「居合わせた人々のうちの一人が」そうしたとあり、弟子の誰それがという記事にはなっておりません。ようするに、マルコによる福音書では、男たちはすべての者たちが、イエス様が捕えられたあたりから、姿をくらましているのです。
 もちろん、ペトロは、捕えられたあと、大祭司の屋敷まで、そっとついていきましたが、そこにいた女中や男たちから、イエス様の仲間だと指摘されて、それを否定して、イエス様を裏切ります。
 それに比べ、女性たちは、女性の弟子たちといってもいいかと思いますが、彼女たちは、遠くからイエス様のお姿を見守り、葬られた墓の場所を確かめ、それから、安息日が終わると、これら3人の女性たちは、香料を買いに行き、週の初めの日の早朝に、墓にイエス様に香料を塗るためにでかけて行きました。女性たちの方が、よほどに肝がすわっているというか、死んだ後も、イエス様に変らぬ従う気持ちと愛をもっていることがわかるのです。
 しかし、このような彼女たちではありましたが、彼女たちもイエス様が復活をされるということは、このとき、頭になかったようです。彼女たちは、イエス様が復活されるという話を、生前、弟子たちから聞いていたと思えます。彼女たちは、少なくとも、イエス様と弟子たちのお世話をずっとしていたはずですから、イエス様がどのような話をしたかくらいのことは、弟子たちから聞いていたと思われます。
 確かに、例えば、10章の32節からのところでは、イエス様が、これから自分の身に起ころうとしていることを話され、そのなかで、自分が、祭司長や律法学者たちに引き渡され、死刑を彼らから宣告され、異邦人つまり、ローマの兵隊たちに引きわたされて、彼らから侮辱をうけ、殺される、そして、三日目の後に復活することを告げていますが、それは、弟子の12人に対してであったとありますから、彼女たちは知らなかったということはあったかもしれませんが、イエス様は、そのとき既に、そうした話をしたのは3回目でありましたから、このようなお話を女性たちも弟子たちから、漏れ聞いたということはあったと想像できるのではないでしょうか。
 しかし、このとき、香料を塗りにいった彼女たちが、それを確かめるようすは、何も描かれていません。彼女たちは、そのことを忘れていたのか、あるいは、最初からまさかそんなことはと、信じていなかったか、でしょう。そして、弟子たちに至っては、そこらに、彼らの姿は、描かれていません。直接に、幾度か、復活するお話をイエス様から聞いていた彼らでしたが、そのような大事なことを確かめようなどといったようすは、まったくありませんでした。イエス様のお話を信じていなかったのでした。
 そして、これらの女性たちもまた、そのことを確かめるために墓に行ったのではなく、香料を塗るために行ったのでした。彼女たちは、弟子たちに比べても、随分とイエス様に忠実であり、イエス様に心があり、そのことを形にして表すことも厭いませんでした。しかし、それほどの彼女たちであっても、復活ということは、とても信じ難いことであり、論外のことであったのでしょうか。
 そして、彼女たちは、墓に近づいたとき、ふと、いったい誰が、あの大きな石を転がしてくれるのだろう、と気づいたのでした。そのとき、当てにできる者は、誰もいなかったに違いありません。しかし、彼女たちは、墓まで行きました。彼女たちは、安息日が終わったあと、それは、夜のことだったと思いますが、香料を買い求め、夜明けになるのを待って、少しでも早くにと、急いで、墓にでかけていっております。ですから、墓の扉の代わりになっているその大きな石のことは頭になかったと思いますし、それに気付いても、とにかく、そこにはいかなければと彼女たちの気持ちは、いっときもイエス様から離れることなく、そうした集中した気持ちが先行していたのでした。
 ところが、そこに着くと、石は既にわきに転がされてありました。おそらく、恐る恐るだったと思いますが、中に入っていきました。すると、そこには白い長い衣を着た若者が座っておりました。この若者はいったい何者かということですが、御使いか何か、天的な存在ということでしょうか。当然のことですが、彼女たちはひどく驚きました。
 そして、この若者は、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる、と」。
 しかし、彼女たちは、墓を出て、逃げ去りました。そのときの彼女たちは、震え上がり、正気を失っていたと言います。そして、この御使いから、弟子たちとペトロに伝えなさいと言われていたにもかかわらず、彼女たちは、何も言いませんでした。「恐ろしかったからである」、とありまして、これが、マルコによる福音書の最後の言葉となっています。
 ご存じのように、聖書の一番古い写本には、マルコによる福音書は、この16章の8節までしか書かれておりません。それからのあとの時代の写本では、9節以下も書かれております。そこで、9節以降は、後代の加筆と考えられております。もともとは、この8節で、マルコによる福音書は、終わっていたという説が、今は一般的です。
 そうなりますと、どういうことになるのかですが、他のマタイ、ルカ、ヨハネによる福音書では、復活のイエス様に直接、これらの女性たちや弟子たちが再会したことになっていますが、マルコでは、女性たちや弟子たちが、復活のイエス様には直接に誰も会ってはいないということになるのです。
 誰も復活のイエス様のお姿も、お声も聞いていないのです。ただ、御使いから、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という話を聞いたというだけなのです。そして、そのイエス様が、「あの方は、あなた方より先にガリラヤに行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる」と伝えるように、女性たちは伝言を託されたということだけなのです。
 しかし、そうであれば、それは、私たちもまた同じではないでしょうか。聖書から、イエス様は復活されたという話は、聞いても、実際は、復活のイエス様を見たことはありません。お声を聞いたこともありません。御使いから、イエス様は復活されたことを聞いた女性たちでありましたが、イエス様に再会したわけではありませんでした。ただ、ガリラヤに行けば、そこで、お目にかかれる、イエス様は先に行って待っている、それは、兼ねて言われていたとおりだ、それをあの弟子たちとペトロに告げなさい、と女性たちは言われたのでした。
 イエス様が、先に行って待っているガリラヤ、それは、どういう場所でしょうか。弟子たちが、先に行って、私が来るのを待っていなさい、とイエス様は言っているのではありません。イエス様が、先に行って、これから来るであろう弟子たちを待っているというのです。それは、弟子たちとガリラヤにいたときに、数々の教えをされ、数々の奇跡をなされ、神の国について語られ、大勢の人々が、イエス様のところに殺到していたあのガリラヤです。
 そこにまた、イエス様は戻られている、そして、かつてのように、群衆に向かって神の国を語られ、苦しんでいる病や障害のある人々の癒しをされ、生き生きと活動をされているあのイエス様です。復活のイエス様が、そこに、弟子たちの育ったあの故郷、あのガリラヤに再びおられるのです。そこで、お目にかかれるのです。
 私たちは、あのガリラヤのイエス様に出会うためには、どうすればよいのでしょうか。わたしたちには、今、聖書がこのとおりあります。このマルコによる福音書を読めばいいのです。そこには、生き生きと神の国を語られ、弟子たちにいろいろなことを教えられ、多くの人々の病を癒されたイエス様のお姿が描かれていますから、その記事を読んで、私たちは、再びイエス様と出会うことができます。
 それから、もう一つあります。それは、パウロに復活のイエス様が出会ってくださったように、今を生きる私たちにもまた、同じように、出会ってくださることがあるということではないでしょうか。日々の生活のなかで、復活のイエス様が出会ってくださる、ということです。それは、パウロのときのように劇的な出会いを用意してくださっているかもしれません。
 パウロの場合は、イエスという男をメシア、キリストと信じるクリスチャンという輩がいて、ユダヤ社会を惑わしている、彼らを捕まえて牢屋に入れなければと、間違った使命感に燃えて、活動をしていたときに、突然、眩いばかりの光に照らされ、目が見えなくなり、彼にしか聞こえない声で、「サウロ、サウロ、どうして私を迫害するのか」と言われ、これからの自分のなすべきことを告げ知らされたのでした。そのような出会いを私たちも何らかの形でいただいているのではないでしょうか。今なお生きて働いておられる神様の力が私たちに臨む、それは、復活のイエス様に出会うということになるのではないでしょうか。
 さらにまだあります。イエス様がなさったたとえ話のなかの、この世の終末のときの、裁きのたとえ話です。裁きの日に、王がやって来て言うのです。お前たちは、わたしの父に祝福された人たちだ、天地創造の時から用意されている国を受け継ぐことができる、そういうのです。
 それは、王が、飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた、からだということでした。そこで、正しい人たちが、王に言うのです。いったいいつ私がそのようなことを、あなたにしたでしょうか。すると、王は答えました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。
 つまり、イエス様との出会いは、こうしたいと小さき人々との出会いであって、その彼らにしたことは、つまり、イエス様にしたことと同じであるということです。そこで、イエス様との出会いをいただけるのです。
 まだ、復活のイエス様に出会っているという事柄は、あるかもしれません。現に、今こうしてイエス様が復活なさってから、今に至るまで、滞ることなくイエス・キリストへの礼拝が、この復活の朝に守られ続けられていると言うこと自体もまた、復活のイエス様が臨在されている、生きておられる証拠だと言えば言えるかもしれません。
 ところで、この女性たちが、告げなさいと言われたけれども、恐ろしくて誰にも何も言わなかったということが、最後に書かれているのですが、それについては、それでよいということではないでしょう。それについては、むしろ、そうであってはならない、この女性たちのようであってはいけない、御使いから告げなさい、と言われたことは、そうすべきだということだと思います。たとえ、そのときには、怖くて、話せなくても、いずれ話したからこそ、このお話は残っているのですから、そのように、思い直して、語りなさい、そういうことなのだろうと思います。
 私たちも復活のお話をしますと、それまで、友達だった人々と、あるいは、職場の友人たちと、或いは、家族からも、あきれられ、時には、相手にされなくなってしまうかもしれないといった恐れがあります。しかし、黙っていてはいけない、語りなさいということではないでしょうか。
 実際、パウロも、アテネでイエス様の復活に話しが及んだときに、アテネの人々は、ある者は嘲笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ったのでした。使徒言行録の17章32節からのところです。そのように、復活のお話をするのは、とても難しいことがわかります。だからといって、このことについては、黙っていなさい、語らなくてもよい、とは、聖書は私たちには語っておりません。
 大胆に語ることを、むしろ、勧めているのではないでしょうか。この女性たちは、とても恐怖をおぼえたのですから、責めることはできませんが、それでも、勇気を出して、御使いから言われたことを弟子たちとペトロに伝えるべきでした。しかし、繰り返しますが、彼女たちは、このときはそれができませんでしたが、あとで、思い直し、言われたことを伝えたからこそ、イエス様が復活したお話が残っているのです。
 私たちもまた、そのときにはできなくても、思い直して、御使いから言われていることを語るべきなのです。それは、イエス様が復活されたということです。そして、それは、弟子たちに新たなる希望を与えることになる、弟子たちを再び奮い立たせることになる、私たちに桁違いの希望を与え、私たちを再び奮い立たせることになる、ということを告げることでもあります。
 イエス様は、復活された、そのことを信じるか、兼ねてから、イエス様が言われていたように、三日目に蘇らされて、あなたがたより先にガリラヤに行く、そのことを信じるか、聖書に書かれているように、イエス・キリストの復活を信じるか、そのことが問われています。そして、復活のイエス様を語ることを恐れてはならない、復活のイエス・キリストを語りなさい。そのことが問われています。
 パウロは、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めです」とも述べています。まさに、私たちは、神様の恵みにより復活のキリストにとらえられた者たち、そして、キリストに自分を献げ、自分の人生を賭けた者たちだと言えるのです。


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