礼拝説教


5月27日

ローマの信徒への手紙一 8章22〜26節


分かれ道に立って、よく見

青野太潮 師

 39歳で亡くなったショパンが28歳のときに作曲した「雨だれ」の、現存する彼直筆の楽譜を見ると、そこには「天才」ショパンの「苦悩」を映し出すかのごとくに、真っ黒に塗りつぶされた修正部分があります。そこから彼の内心の「格闘」が見て取れます。このときのショパンは、彼自身の病気や恋愛のことで、深く悩んでいたようです。作曲家でピアニストの加羽沢美濃(かばさわ みの)さんは、この楽譜の黒く塗りつぶされた部分を前にして号泣してしまった、とテレビ番組のなかで語っておられました。

 パウロもまた、「どう祈るべきかを知らないうめき」と表現されている「苦悩」を知っていました(ローマ8章22-26節)。ここで言及されている“霊”とは、「神の霊」、神の「働き」としての「聖霊」のことを意味していると思われます。その「神の霊」は、「どう祈るべきかを知らない」私たちを、助け、執り成してくださるのだ、とパウロは語ります。それのみならず、その「神の霊」は、「言葉に表せないうめきをもって」執り成してくださるのだ、と言います。そこでは、神ご自身が私たちの「うめき」を共有してくださり、私たちとともに苦しんでくださっているのだということが、しっかりと押さえられています。

 もしもそうだとしたら、そのような「苦悩」は、キリスト教の初期の歴史のなかで信仰の中核をなすと信じられるに至った「三位一体」の教義のなかで、「父なる神」、「聖霊」に並ぶ、「三位一体」の神のもう一つの「位格」(ペルソナ)であるとされる「神の子イエス」においてもまた、当然妥当すると言わなくてはならないでしょう。実際、マルコ福音書は、イエスの最後の日々におけるイエスの「苦悩」について、14章32-36節、そして15章33節以下で、詳細に記しています。 ゲッセマネの園では、苦悩の只中で、最後には「自分の願いではなくて、御心に適うこと」を求められたとされているイエスも、十字架の上では、なおも「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と、つまりアラム語で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれた、と記されています。それは、ヘブライ人への手紙5章7節が言及している「神を畏れ敬う態度」とは、かなり異なった印象を与える振る舞いです。しかしイエスのその絶叫は、パウロが語っている、神が発しておられるという「言葉に表せないうめき」を、直ちに想起させるものではないでしょうか。

 しかしここには、生前のイエスが語られた言葉を、まさにイエスご自身が生き抜かれたといういう現実があるのだ、と私は考えています。ルカによる福音書6章20-21節によれば、イエスはこう言われました。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」またマタイによる福音書5章4節(口語訳)によれば、「悲しんでいる人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」と言われました。つまり、イエスは十字架上で、ご自身が、「貧しい者、今飢えている者、今泣いている者、悲しんでいる者」そのものになっておられるのです。

 さらにそこでは、生前のイエスが語られた別の言葉も現実となっています。イエスは、マタイ6章8節によれば、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と、あたかも私たちの側からの祈りはもう必要ないかのごとくに言われながらも、同時に、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7章7節)とも言われた、とされています。それはちょうど、パウロもまた、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神である」(フィリピ2:13 口語訳)と言いながら、一見すると、だからもう私たちが祈ったり願ったりする必要などないのだ、とでも言っているかのごとくに思われかねないにもかかわらず、しかし同時に、「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ5章17節)とも語ることによって、私たちの祈りの必要性をも強調していることに相通じています。

 なぜイエスは、十字架上で自らのこのような言葉を現実にご自身が生きておられた、などと言えるのでしょうか。それは、私たちの願い、祈り、探求、叫びが向けられている先には、常に神がともにいてくださって、その祈り、願い、を起こさせておられるのだ、それのみならず、それらを実現に至らせてくださっているのだ、ということがしっかりと押さえられているからです。イエスの叫びも含めて(!)、私たちの叫びは、決して空虚な独り言(モノローグ)ではないのです。たとえ私たちがいま生きている現実が、(この説教のあとに歌う讃美歌の歌詞を書いてくれた)ナチの強制収容所で獄死したドイツの神学者ボンヘッファーがかつて獄中書簡のなかで書き記しましたように、「神の前で、神とともに、神なしに」生きる、という、厳しい様相を呈している緊張に満ちた現実であったとしても、しかしそこには、それを必ず聴いてくださっている神がおられるのであり、最も深いところでは、その「独り言」のような祈りをもご自身とのあいだの「対話」(ダイアローグ)としてくださっている神がおられるのです。

 イエスの十字架上での叫びの場合、その「対話」は、その叫びに対する「肯定」としての「復活」において現実のものとなりました。そう、十字架を不可避的な結果としてもたらしたイエスの生涯の全体において、宣言され、そして生き抜かれた「福音」の内容は、まさにそれでよかったのだ、という意味における神からの「肯定」としての「復活」において、現実のものとなったのです。

 すでに見たローマ8章25節の「目に見えないものを待ち望む」姿勢も、神が常にともにいてくださって、私たちのその「待望」を現実のものとしてくださるのだ、との確信に基礎づけられています。そのような「希望」によって、私たちは「救われたのだ」(!)と、パウロはここでのみ過去形(ギリシア語のアオリスト形)で語ります。さらに、すでに見ましたように、それに続く8章26節は、その神の「霊」が、「どう祈るべきかを知らない」私たちを、助け、そして執り成しをしてくださっているのだ、そればかりか、その神の「霊」は、「言葉に表せない切なるうめきをもって」(口語訳)執り成しをしてくださっているのだ、すなわち、神ご自身が私たちの「うめき」を共有してくださり、私たちとともに苦しんでくださっているのだ、と語ってくれているのです。実にそのような事実が、私たちの信仰の確信の基盤にはあるのです。

 「救いの現実」は「すでに」そこにあるのです。教会員の石松隆司さんが息子さんの光くんの2週間前のバプテスマ式を記念して作詞作曲された「いま、ここから」のなかにも、同じことが見事に歌われています。

 

目指すべきものは きっとすでにある/ いま立つところで 与えられるから

怖じけることなく ここから歩め/ 恵みはあなたに 満ち足りている

新たないのちに いま生かされる/ 新たな光が いま未来を照らす

キリスト・イエスが いまともにいる/ キリスト・イエスが ずっとともにいる/ ここからいつも

 

 招詞で読んだエレミヤ書6章16節(口語訳)の「わかれ道に立って、よく見」なさい、という言葉は、苦悩に満ちたこの世の歩みにおいて、常に神がともにいてくださるという揺るがない事実に基づいてそれぞれの決断をしていくように、と私たちに語っているのだと思います。

 「分かれ道」、それは、水の流れで言えば、まさに「分水嶺」のことです。合計8年間のスイス生活のなかで、スイスアルプスなどの景観に接して感動したことは数多くありますが、なかでも最も感動したのは、「分水嶺」との出会いでした。分水嶺はドイツ語でWasser Scheide、英語でWatershedと言います。私が接したのは、ひとつは、スイス、フランス、ドイツを経て、北海へと注ぐライン川(1233km)と、オーストリアのウィーンやハンガリーのブタペストを経て、トルコの北にある黒海へと注ぐドナウ川(2860km)との、ふたつの大河の間にある分水嶺であるアルブラ峠(サンモーリッツ近く)です。もうひとつは、そのサンモーリッツからイタリアのティラノへと至る、スイスアルプスの南側を走る氷河特急がその脇を通過する、「白い湖」(イタリア語でラゴ・ビアンコ)と「黒い湖」(ロマーニッシュ語でレイ・ネイル)の間にある分水嶺です。後者においては、文字通り「水の色が黒い湖」が、上でふれたドナウ川(2860km)の始まりであり、文字通り「水の色が白い湖」が、地中海のアドリア海へと注ぐポー川(652km)の始まりです。そしてふたつの湖の間には、まさにそこがドナウ川とポー川との間の分水嶺であることを示す看板が立っていて、そこにはドイツ語でWasser Scheideと書かれています。

 なぜそんなに感動したのかと言えば、水に意志があるわけではありませんが、その水がここでどちらの湖に流れ込むのかによって、そのあとには、もう絶対に引き返すことのできない別のふたつの長い道のりがあるのみである、という厳粛な事実に思いを馳せざるを得なかったからです。そのどちらがよいのか悪いのかという判断は別にして、小さな「決断」「選択」がもたらす壮大な「結果」がそこにはあります。高校時代にアメリカ留学をしてクリスチャンになり、帰国してすぐの大学受験に失敗して浪人中に、深い悩みのなかで伝道者になることへの召命を受けて「直接献身」の「決心」をした私の人生は、そのふたつの出来事を「分水嶺」として、それまでの私には想像だにすることのできなかった歩みをもたらしてくれました。もちろん、老年となった今も、何の後悔をもしてはいません。

 「わかれ道に立って、よく見」は、そんな個人的な領域を超えた決断をも明らかに要請してはいるのでしょうが、ともかく、今このときの決断が、実に大きな意味を持ってくるのだということを深く認識して、日々適切な判断をしていきたいものだ、と切に願います。そしてその際には、神さまはいつも私たちとともにいてくださるのだという、私たちに深い勇気を与えてくれる事実を、常に覚えていたいと思います。


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