巻頭言


4月22日
コリントの信徒への手紙一1章18節

ひび割れから入る光

L.ハンキンス  協力牧師

 

 十字架はキリスト教の象徴です。教会堂の上に付け、礼拝堂の前にかけ、体にイアリングやペンダントにしてつけます。磨いた、美化された十字架です。教会生活が長くなれば長くなるほど、平和の君、愛する神の子を記念し、礼拝するシンボルが死刑の道具になっていたことを不思議に思います。
 二千年ほど前、キリストの十字架の当時には、誰もが嬉しく思い、感謝していたわけではなかったでしょう。神の愛が否定され、行き詰まったとしか見られませんでした。神の愛は人間の間に宿りましたが、拒絶されました。私たちが今読んでいる聖書はあり得ないはずの出来事を、葛藤した末に書かれた解釈です。やはり、十字架の日に神様の尊い愛が終わる出来事ではありませんでした。死よりも強くて、悪意よりも優れ、永遠に続く愛です。
 パウロは、「十字架を理解しようとしない人にとっては、ナンセンスですが、本当の意味を受け入れようとしている人にとっては、神の力となる」このように言いました。ハレルヤという曲で知られているカナダのシンガーソングライタのレナド・コーエンは「ひび割れを注目しなさい。そこから光が入るからだ」と言いました。十字架は歴史にある切り傷です。私たちの一週間の流れの中にも、人生においても、予測もできなかったひび割れがあります。行き止まりと思いがちですが、イエス・キリストの十字架が語ってくれます。
 その傷を通して、神様からの光が入るのよ!爆心地の一番近い教会は日本キリスト教団広島流川教会です。今は、焼かれ、みにくいまま、原爆を被った十字架が建て替えられた現代風の礼拝堂の中にかかってあります。歴史の中で、一人一人の人生の中に、傷があり、ひび割れがあります。けれども、そこを通して神様からの光が射し込みます。その先にある希望を見出していきたいと思います。ハレルヤ。


4月15日
コリントの信徒への手紙一3章10〜17節

キリストという土台の上に家を建てる

平良  師

 

 まず、私たちが、イエス・キリストの福音を伝えられるのは、私たちが、一生懸命勉強し、努力した結果だというのは、違うということが書かれています。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」とパウロは、述べています。彼は、当初、ユダヤ教のニューリーダーとして、ガマリエルという学者から教えを受け、その道では、それこそ「熟練した建築家」のような存在でした。
 しかし、今はキリストを宣べ伝える者として立っております。それでも、それまでの旧約聖書に関する知識に精通し今や、イエス様の福音との違いを捉えている彼は、他のキリスト者たちよりも、もっと明確に福音の本質を理解していたと思われます。そういった意味では、さらに熟練した建築家のように、イエス・キリストという土台をコリントの教会に据えることができたのでした。
 しかし、それらは、彼の努力の賜物ではなく、神からいただいた恵み以外の何ものでもないことをはっきりと述べています。そして、「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」、とパウロは述べています。
 そして、「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます」とあり、終末時における裁きが語られ、それぞれのこの世でのキリスト者としての歩みが問われるというのです。しかし、それであっても、「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われる」のです。パウロは、一方では、キリスト者としてのこの世での歩みが厳しく問われることを言いながら、それでも、一方では、すべての者に及ぼされる恵みの救いについて語ります。