巻頭言

説教の要旨


9月16日

マルコによる福音書 7章14節〜23

外と内から

青野 牧師

 今日の聖書箇所であるマルコ福音書7章1節以下について、私は『どう読むか、聖書』(1994年、朝日選書、朝日新聞社)の26〜28頁において、次のように書きました。

 <「すべて外から人の中にはいって来るものは、人を汚しえないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出ていくだけである」(7章18〜19節)。この直後に、福音書記者マルコは、「イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた」と注釈しているが、これは旧約聖書のレビ記のなかでこと細かに定められている、食べてもよいものといけないものについての食物規定への批判であるのはもちろんである。しかし、それは単に食物規定についてのみならず、もっと根本的にイエスの人間理解を示すものとして受け止めるべきことばであろう。(中略)/もっとも、聖書のなかには必ずしもイエスの思想を適切に継承しているとは言い難い文言もかなりあり、それは時代が下るにつれて顕著になっていく。そしてそのことは、現に今日、聖書を日本語に翻訳した人々のなかにも根深く巣食っていることが、上述の聖書箇所の訳出の仕方からも言える。それは7章19節の、「そして外に出ていくだけである」の文章のなかの、「外」という訳出においてである。/ギリシア語の原典におけるこの語は、アフェドローンであり、その意味するところは「便所」であって、「外」などという意味ではない。ところがなぜこの語を、私が引用した口語訳も、最近の共同訳や、新共同訳も、みな「外」などと訳出するのだろうか。おそらくは、イエスの語った言葉のなかに「便所」などという語が出てくることに、現代日本の聖書翻訳者たちは違和感を抱き、それはイエスに、あるいは聖書にふさわしくないと考えて、そのように訳したのだろう。/しかし、本当にそうだろうか。便所とは何か不潔で、イエスが口にするのにはふさわしくない語であろうか。否である。なぜならば、世界のだれが、便所に行くことなしに生きていくことができるか、ということを考えてみれば、その答えはあきらかである。それは、それなしにはだれも生きていくことのできないものであり、少しも汚れたものなどではない。そしてイエスは、まさにその人間の現実を直視して、何々を食べてよいとか悪いとかいった、そうした外面的なことがらは、まさに「便所に出ていくだけだ」と言い放ったのではないのか。それなのに、そうした外面的なことがらはどうでもよいことなのだとイエスが語っているまさにその箇所において、イエスの口に便所などという語をあてはめるのは不敬にあたるのではないかというような外面的なことがらに、これらの聖書の翻訳者はこだわっているのである。/ちなみに、文語訳はこの箇所を「これ心には入らず、腹に入りて厠(かわや)におつるなり」と正しく訳出している。(補注、新改訳は文語訳を踏襲する形で、しかしひらがなで「かわや」と訳している。)このようなよき模範があるにもかかわらず、より新しい聖書訳が「外」などと訳していることのなかに、キリスト教における聖と俗に関する誤った理解が一般的に浸透している、という事実が浮き彫りにされているように思われる。>

 今回は、宇多田ヒカルさんの「花束を君に」に注目しながら、上の引用では扱わなかった「かえって、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」の意味することがらについても、新たな考察をなしてみたいと思う。


9月9日

ペテロ 1章3節〜9

信仰の実りとは

平良 牧師

 ペトロは、迫害に遭い離散してしまった信徒たちに励ましの手紙を送りました。彼らはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティ二アなどの各地に離散し、今は仮住まいをしています。離散して不自由な暮らしのなかにある彼らですが、しかし、神様によって生き生きとした希望を与えられていると、ペトロは、述べています。

 今日は、敬老の日をおぼえての礼拝を平尾とJOYSHIPとアーベントチャペルの皆様と一緒に守っています。私たちの教会をこれまで支えてきてくださった先輩の皆様に感謝を表すと共に、その先輩たちを、私たちの教会に与えてくださり、今日のこの日まで守り、導いてくださった神様に感謝を表す礼拝でもあります。

 今日、示された御言葉のペトロの手紙一の3節から9節には、迫害を受け、離散して不自由な暮らしのなかにあるはずのキリスト者たちに、ペトロが、多くの恵みの言葉を語っています。「神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ」、「イエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」、「救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」、「あなたがたは心から喜んでいるのです」。ただし、こうも語ります。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と栄光と誉れとをもたらすのです」。

 苦難は、続くかもしれないけれど、それは、そのことによって信仰が育ち、終末のときには、それが称賛と栄光と誉れとをもたらすことになるのだと、述べています。まさに、教会の先輩たちの人生のなかに、そのことを私たちは見させていただいているのではないでしょうか。


9月2日

士師記 11章29節〜40

誓ってはならない

平良 牧師

 士師記に入ります。士師とは、裁き司という意味です。ただし、まさにそのような人物として描かれている者もいれば、預言者として、或いは、それぞれの部族に登場した指導者や英雄として、扱われている人々もおります。士師記では、王政を整えるまでのイスラエルの歩みが綴られています。イスラエルが、約束の土地を取得したあとに、それぞれの部族がどのような歩みをしたかが描かれていますが、あるときは、部族連合としての動きがあったことも述べられています。

 今日のところは、エフタという士師です。彼は、ギレアドの勇者でしたが、遊女の子でありました。そして、父親の妻にも、男の子供が数人おり、彼らは、成長して、エフタに、「あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたちの父の家にはあなたが受け継ぐものはない」と言われ、追い出されてしまいます。そして、その彼のもとへならず者たちが集まり、彼と行動を共にするようになり、一つの勢力となっておりました。

 ちょうどその頃、アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきて、ギレアドの長老たちは、エフタに帰って来て、自分たちの指揮官になって欲しいと願い出ます。そして、アンモン人と戦い、彼らに勝利した暁には、自分たちの頭になってもらうことを条件として提示したのでした。そこで、エフタは、初めは話し合いで解決をと考えたようですが、相手がそれに理解を示さなかったために、ついに戦うこととなりました。

 そのとき、エフタは、誓願を立て、「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出てくる者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」と述べました。そうして、戦いに勝利し、帰ってきたエフタを最初に迎え出たのは、自分の一人娘でした。嘆くエフタに、娘は主に誓ったとおりにするようにと言うのでした。