巻頭言

説教の要旨


7月21日

創世記39章1節〜23

主が共におられ、すべてをうまく計らわれる

平良憲誠 主任牧師

 エジプトに売られたヨセフは、ファラオの宮廷役人で侍従長のポティファルの所有となりました。「主が共におられたので、彼はうまく事を運んだ」、「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」とあります。

 ヨセフが有能であったというよりは、神様が共におられてそのように振る舞えるヨセフにしたということでした。神様が共におられて、すべてのことをヨセフの業として、成さしめるのですから、当然なことでした。そして、神様は、ヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福され、その祝福はポティファルの所有するすべての財産に及びました。そのため、彼は、ヨセフをすっかり信頼して、彼のすべての財産をヨセフに委ねてしまったのでした。

 そのヨセフは、「顔も美しく、体つきも優れていた」とあります。それで、ポティファルの妻の誘惑にあいます。それでも、頑なにその誘惑を拒否していたヨセフを妻は、自分にいたずらをしようとしたと夫に訴え出たのでした。それで、ヨセフは、ポティファルの怒りをかい、王の囚人をつなぐ監獄に入れられることになります。しかし、ここでも、主が共におられ、ヨセフに恵みを施されたので、監守長の目にかなうこととなります。

 そして、監守長は、監獄にいる囚人を皆、ヨセフの管理に委ねることにしたのでした。「看守長は、ヨセフの手にゆだねたことは一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」。ヨセフは、行った先々で、その場を取り仕切る者に抜擢されていきます。そこはヨセフの初めて行く場所であり、知人が一人もいない場所なのですが、そのようになっていきます。すべては、主が共におられる故です。キリスト者にとって、初めての場所、初めての仕事であっても主が共におられるなら大丈夫です。


7月14日

創世記37章12節〜36

人の思いを越える神の摂理

平良憲誠 主任牧師

 ヤコブは、羊の群れを飼っていた兄たちの所へ行って、無事を見届け、様子を知らせて欲しいとヨ セフを遣わします。この時、ヨセフだけは、兄たちと一緒に行かず、ヤコブのもとにいたようです。ヨセフが、兄たちの所へ行ったとき、兄たちは、遠くのヨセフを見つけて「おい、向こうから例の夢見るお方がやってくる。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう」と算段します。

 兄たちの憎しみは殺意にまでなっておりました。長男のルベンは、穴に投げ入れるだけにして、命まで奪うのはやめようと言い、あとでヨセフを助けるつもりでおりました。ユダは、殺すのはやめて、ヨセフをイシュマエル人の隊商に売ろうと提案し、皆がそれに賛同しました。ところが、兄弟たちが話し合っている間に、ミディアン人の隊商が先に穴の中のヨセフを見つけ、彼らが、イシュマエル人に売って、エジプトに連れていかれたのでした。

 兄弟たちは、穴のところへ来たときに、ヨセフがいないのを知り、ヨセフの着物を山羊の血で浸し、父親のところへ持って帰りました。ヤコブは、野獣にヨセフが襲われ殺されたと考えました。そして、「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう」と、落胆したのです。一方、エジプトへ売られたヨセフは、ファラオの侍従長であったポティファルのものとなりました。ここでのお話は、どれ一つとっても、それぞれの思惑どおりに事が進んでおりません。

 父親は、ヨセフが兄たちから殺意を抱かれるほどに憎まれているとは考えておりません。ヨセフもまた、兄たちがそれほどに自分を憎んでいることに気づいておりません。兄たちは、ヨセフを殺害しよう、懲らしめよう、そして、売ろうと考えたのですが、それらの思惑は外れてしまいました。結局、ヨセフは野獣に食われたと理解され、その実、エジプトに行くことになったのでした。 


7月7日

創世記37章1節〜11

心に留める夢

平良憲誠 主任牧師

 聖書では、その人物のこれからの人生について、夢が神様の御心を示していたり、神様の導きがそこから始まったりします。ヨセフは、よく夢を見ましたが、他人が見る夢を解くこともできました。フロイトは、夢分析というものをやって、夢が人間の深層心理にあるものを反映していることを説明しています。

 それを読んでみますと、なるほど、そういうことはあるだろうなあ、と納得させられます。そういうことで、このヨセフが見た夢を解釈するならば、ヨセフという人物は、はっきりと意識はしていないけれども、今何か抑圧されているような気持があって、いずれ、この兄たちが自分を拝むことを願っている、また、兄弟だけでなく、父も母も自分に傅くことを願っているということになるのでしょう。それだけ、今の自分は虐げられ、兄弟たちにも父母にも軽んじられているといった思いがあり、それから解放されたいといったことだったのでしょうか。

 しかし、聖書は、ヨセフの抑圧されている彼の気持ちを代弁しようとしているのではありません。明らかに神様のこれから起こされるであろう啓示として、ヨセフとその兄弟たち、父母に知らしめたのでした。兄たちは、ヨセフのことを憎んでおりました。一つには、ヨセフは、父親の偏愛を受けておりました。また、兄たちのことをよく告げ口していたのです。そして、このときには、夢を見たというので、兄たちに話したその内容は、畑でヨセフが結わえた束に、兄たちの束が集まってきて、ヨセフの束にひれ伏したということでした。

 これを聞いた兄たちは、お前が自分たちの王になるというのかと、腹を立てたのでした。そして、次は、太陽と月と11の星がヨセフにひれ伏したという夢を見たとまた話したので、今度は、兄たちだけでなく父親のヤコブもまた彼を叱りました。兄たちは、さらにヨセフを憎むようになりましたが、父親は、このことを心に留めたのでした。


6月23日

フィリピの信徒への手紙 3章12節〜4勝1

なすべきただ一つのこと

平良憲誠 主任牧師

 

 「兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、 後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。ここに描かれ ている「上へ召して、お与えになる賞」とは、何でしょうか。

 それは、復活のいのち、或いは、救いの完成ということでしょうか。フィリピの信徒への手紙3章の10節から11節で、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と言っています。パウロは、「既にそれを得たというわけでなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。

 自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません」。ここらの言い回しは、しつこいくらいですが、どうしてこうも拘るのでしょうか。それは、おそらく、フィリピの教会のなかに、自分は既に完全な者となったとか、既に捕えたとか、悟りを拓いたと豪語しているような人々がいたのだと思われます。それに対して、パウロは、自分は、そうではないと言いつつ、だからこそ、必死になって、それを追い求めていると言います。自分を完全な者だと考えている者は、逆に、まだ、そのことを捕えていないと考えて、必死にそれを追い求めなさいと言います。

 そして、同時に、パウロは、まだそれを捕えていないと言いながら、その自分に倣う者となるように言います。それは、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いからだというのです。それらの人々の行き着くところは滅びだと断言します。彼らの歩みは具体的にどのようなものであったのでしょうか。「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えて」いない人々でした。