巻頭言

説教の要旨


11月4日

イザヤ書 56章1節〜8

加えて集めよう

平良 牧師

 最近、ドイツでは、人道主義的立場から難民を受け入れることに積極的に取り組んでいた政権が選挙で大敗をしてしまうという出来事が起こりました。首相のメルケルさんは、任期満了をもって、首相の座を退くことを明言しました。逆に、難民受け入れ拒否を訴えていた右派勢力が、勝利しました。また、ブラジルでも、トランプ大統領を尊敬しているという人物が、大統領に選ばれ、彼もまた、ブラジルファーストを主張しています。

 トランプのしていることは、成功しているという評価があるというのが驚きですが、そのように考える者たちもいるのです。私たちは、恐ろしい時代に突入したといった認識を持った方がよさそうです。多くが、自分のことしか考えない、それのどこが悪いという開き直った人々が横行し始めてきたのです。自分たちのことしか考えられないというのは、人間の罪であり、弱さですが、聖書の神様はそれでよいと教えておられるでしょうか。

 神様もイスラエルの民を選ばれたではないか、と思う方もおられるでしょう。しかし、それは新約聖書において大きく変わりましたし、実は、旧約聖書においても、いろいろな箇所で、すべての国民、人々に神様の赦しや祝福は語られているのです。このイザヤ書56章1節から8節でも、そのことは言えるでしょう。預言者イザヤは、神様が招いておられる人々について、「異邦人」と「宦官」を取り上げています。それまでは、申命記の23章2節、3節にありますように、彼らは会衆の仲間として受け入れられないことになっていました。

 しかし、イザヤ書の先ほどの箇所には、「わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名をわたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」とあり、また「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と書かれています。


10月28日

ルツ記 1章16節〜19a

どんな悲嘆にも意味がある

 牧師

 ルツ記は聖書の中で特別な位置を占めていると思います。聖書66巻中に女性が主人公として書簡名になっているのはエステル記とルツ記のみです。ルツ記ではイスラエル民族であり、「快い」という意味の名を持つナオミと、彼女の息子の嫁となったルツ(「友情」の意)がいます。ルツはモアブの野に住む異邦(外国)人でしたが、夫に先立たれ、また二人の息子を失ったナオミに寄り添い、自身も深い悲しみの中にありながら、姑と人生を添い遂げることによって、イエス・キリストの系図の中に名を記される女性となりました(マタイ1:5)。嫁と姑の関係で、現代ではありえない話だと皆さん笑うでしょうか。

 奇しくも、ナオミもルツもそれぞれ夫を失うという悲しみが、ナオミの故郷ベツレヘムへ彼女たちを戻すこととなり、ルツも、異邦人でありながら神の民に加わることが出来たのです。ルツ記には文字こそ出てきませんが、「贖う」(神様のものとされる、買い取られる)というテーマが見え隠れします。ルツは落穂ひろいの最中、ナオミの遠い親戚と言える青年ボアズと出会い、結婚へと導かれてオベドを授かり、このオベドはダビデ王の父エッサイへと家系が繋がれていきます。

 私たちの人生にも大なり小なり、様々な喪失がありますが、とりわけ愛する伴侶を失う、という大変大きな喪失の中には嘆きは非常に深いものがあります。それでも、彼女たちの物語から、わたし達の人生それぞれにも喪失の中に深い意味が隠されていることを聖書から教えられます。救い主御子イエス・キリストがお生まれになったのは、彼女たちが戻った「パンの家」を意味するベツレヘムでした。彼女たちにとって嘆きの最中であってもそのこと自身に意味があり、遠い未来の話にも、今与えられている悲嘆の意味があります。


10月21日

詩編 46章1節〜12

神は避けどころ、苦難のときに助けてくださる

平良 牧師

 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。この詩編46編は、宗教改革者のマルチン=ルターの愛唱詩編であったというこ とです。彼は、この詩編46編によって、励まされ、勇気を与えられたと言います。どのよう な信仰熱心な人も、苦しみや悩みがないという人間はいません。

 彼もまた、その宗教改革の最中に、多くの恐れ、不安、そして、人々の無理解など、数々の苦難があったことでしょう が、この詩編の言葉によって、そのときを乗り越えていくことができたのでしょう。詩編46編の2節は、この詩編の主要テーマを述べている箇所だと思われます。私たちに、神様こそ がわたしたちの避けどころであり、苦難のときには、必ずそこにおられ、助けてくださるのだといった神様への信頼を固くせよ、そのように述べているようです。

 たとえ、火山や地震が起ころうとも、津波や洪水が起ころうとも、恐れることはいならいと言います。神様の都を、また、その聖所を思い浮かべます。神様のおられるところは揺らぐことがありません。 そこには、大河がゆったりと流れています。おそらく、黙示録の22章の1節と2節は、この 詩編46編5節の影響を受けております。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月、実をみのらせる」。さらに、実際、都エルサレムには、地下水道があって、この地下水道によって、都を敵に包囲されたときも、都の住人は命を繋いできていたのでした。

 また、神様は、世の争いを鎮められるお方です。「主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」。ですから、 私たちは、己の力を捨て、力を抜いて、この神様にすべてを委ねることをするのです。「万軍の主はわたしたちと共にいます」ことを信じて。


10月14日

詩編 8章1節〜10

あなたが御心に留めてくださる

平良 牧師

 私は、一つのことが満たされているならば、それでよいと思います。それは、神様が、この私のことを御心に留めてくださっているということに気づくことです。このことに気づくことができたならば、確信を持つことができたなら、もう他のものは一切要らないと思うほどです。

 私は、小学校の4年生から教会に通うようになり、現在に至っています。10歳から63歳まで、53年間、教会の礼拝を守ることが許されてきました。途中、何回かは教会に行くことができませんでしたが、それでも今に至るまで、概ね礼拝に与れることができたのは大きな恵みだったと思います。神様は、このような者を心に留めてくださったのは何故なのだろうかと思います。

 もちろん、神様に喜ばれるような何かを私がしたとか、持っていたというのではないことは言わずもがなです。むしろ、勉強はあまり好きではない、謙虚さにも欠ける、他者のことを思う心にも乏しい。ですから今日のような詩編の箇所を目にしますと、おそらくほとんどの人々が神様はありがたいなあと思うことでしょう。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。

 ダビデは、自分に限らず、人間すべてに対する神様の愛を見ています。夜、天空で光を放つ星と月を見ています。そこに創造主の存在を見ています。そして、その創造主なる神様が、人間を造り、これに神様が創造されたすべてのものを治めさせることにされたその創造の秩序に人間は誇りすら感じているのです。人間は、滅びゆく者であり、罪多き者です。その人間を神様は、どのようなときにも見捨てることをなさらず、いつも覚えていてくださり、一人一人に心を留めてくださっているのです。


10月7日

詩編 1章1節〜6

ときが巡り来れば実を結ぶ

平良 牧師

 植物に花が咲き、実が成るようすに、人々は神様の創造の業を見ます。あるいは、魚が産卵のために深い海から故郷の川に戻ってくる姿や、逆に、海に帰っていく姿にも、神様の摂理を感じます。そして、今日の詩篇1の3節では「ときが巡り来れば実を結び」とは、人もそれと同じで、ときが来れば自ずと実を結ぶことを教えています。

 どのようなことになろうとも、「とき」が来れば、実を結ぶのです。しかし、詩編には、どのような人が、ときが巡り来れば実を結ぶかというと、誰もではありません。「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」、そのような人々であることが前提になっています。「神に逆らう者」「罪ある者」、「傲慢な者」と一緒になって、事を成そう、歩もうとしている者は、ときが巡り来ても実を結ぶことはないということになります。

 神に逆らう者は、風に吹き飛ばされるもみ殻、裁きに堪えない、神に従う人の集いに耐えない、滅びに至ると言います。さらに、「ときが巡り来れば実を結ぶ人」とは、神様の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人です。神様の教えとは、昼も夜も口ずさむのですから、聖書の御言葉を指していると考えてよいでしょう。また、「昼も夜も」とは、ずっと、絶え間なくということです。そして、次のように考えることもできるでしょう。それは、いいときも悪いときも、とても幸せなときも、その逆でとてもつらいことが続いているときにも、ということになります。

 どのようなときにも、忍耐して、神様が用意されている実りのときを待つのです。「その人は流れのほとりに植えられた木」ですから、水分をずっと供給してもらっています。つまり、水、神様の御言葉を絶え間なくいただいているのであって、そういう人がときが来れば実を結びます。「葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。とても祝福に満ちた人生です。