巻頭言

説教の要旨


2月17日

ルコリントの信徒への手紙一 3章6節〜11

土台はイエスキリスト

才藤千津子 協力牧師

 パウロは、当時繁栄していたコリントの町にキリスト教の共同体を設立し、その土台を据えました。(使徒言 行録 18:1〜11、Iコリント 3:6,10)しかし、パウロがコリントの共同体を留守にしている間、人々の間に深刻な争いが起きていました。(Iコリント 1:11、11:18) 本日の聖書箇所は、コリントの教会共同体のそのような危機に当たって、パウロが人々に書き送った手紙の一部です。 

 さて、本日の礼拝は「会堂記念礼拝」です。平尾バプテスト教会、大名クロスガーデンにとって大切なこの礼拝の説教奉仕のお話をいただいたとき、私に思い起こされた遠い昔の情景があります。それは当時私が属していた教会の講壇の脇に、大段幕に書かれた「建てる」という言葉が掲げられていたことです。教会に一歩はいると真っ先に目に飛び込んでくる「建てる」という墨痕鮮やかな三文字。その堂々とした文字が今でも目に浮かびます。そのときの「建てる」とは、新しい「会堂」を建築しようという意味ではなかったはずです。そうではなく、「教会共同体」を再び新しく立ち上げたいという牧師の熱い思いから掲げられた言葉だったに違いありません。 

 パウロが今日の聖書箇所において、「あなたがたは〔まさに〕神の畑、神の建物」と言う時も同じです。彼は教会建築のことを言っているのではなく「教会共同体」を建て上げることについて述べているのです。そしてパウロは、そのような生きた共同体を成長させるのは神の力であり、その唯一の土台はイエス・キリストだとはっきり述べています。 

 では、ここでパウロが述べている「イエス・キリストが土台」とは、具体的にはどういうことなのでしょうか。 パウロは今日の箇所の前の方で、「十字架につけられたキリスト」(Iコリント 1:23、2:2)について語っています。 教会を建てるにあたって唯一の土台となるのは、「十字架につけられてしまっているキリスト」(岩波訳)だとい うのです。このことは、私たちに何を示してくれるのでしょうか。今朝は、私たち教会共同体の土台となるもの とは何かについて、皆さんと一緒に考えたいと思います。


2月10日

ルカによる福音書 10章17節〜24

喜ぶべき事

平良憲誠 主任牧師

 私たちすべてのキリスト者は日曜日を挟んだ形で、毎週宣教に遣わされています。そして、1 週間のこの世での歩みを終えて、教会に帰ってきます。それから、神様に1週間に何があったのかを語ります。その内容は、苦労したことや失敗したこと、人間関係の行き詰まり、逆に、とてもうまくいった仕事や人間関係のこと、イエス様の話を懇ろに聞いてくれた友人や家族のこと、祈ったことが聞かれたこと、ああ神様が働いてくださったのだ と感謝の気持ちでいっぱいになったことなど、いろいろです。

 イエス様は宣教活動をなさったときに、それを弟子たちにもまた、訓練の一つとして、行った先々の町に住む人々の病の癒しをなすことと「神の国はあなたがた に近づいた」と宣教するように伝え、彼らを町や村に二人ずつ組みにして派遣しました。そのときには、財布も袋も履物も持って行くな、と言われました。つまり、あるものは、イエス様の名前を用いてなされる業だけであったということです。それ以外のものに頼らないようにとのことだったと思われます。

 そして、彼らはでかけて行きました。ところが、彼らは、喜んだのです。それは、イエス様の名前で、ことをなそうとすると、すべてそのとおりになったからでした。彼らは、帰ってきてイエス様に報告しました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」。彼らは、自分たちが持ち得ない力が、与えられたという手ごたえを感じておりま した。それで、ある意味では、有頂天になってイエス様に報告をしたことでしょう。

 ところが、イエス様はこう言われたのです。「悪霊があなたがたに屈服するからといって、喜んではならない。 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。私たちの喜ぶべきこととは何かを教えら れます。それは、信仰によって何ができたということよりも、あなた自身が神様におぼえられていること、その ことこそ喜ぶようにとのことです。


2月3日

ルカによる福音書 7章11節〜17

もう泣かなくてよい

平良憲誠 主任牧師

 子供を亡くした親の悲しみは、その立場になってみないとわからないというのが、正直なところです。このナインで出会った母親は、一人息子が死んで、その葬儀の列の先頭に立っており、イエス様一行に向かって、歩いてきていたのでしょうか。イエス様の方は、弟子たちや大勢の群衆が一緒についてきておりました。ひょっとしたら、イエス様もまたその先頭を歩んでいたのかもしれません。この女性はやもめでした。ですから、なおさら、その悲しみは人一倍に大きいものがありました。

 この女性の方は、町の人が大勢そばに付き添っておりました。イエス様の群れは、病を癒すなどの奇跡をなさり、最近著しく脚光を浴びている、人々の期待を一心に集めている話題の人物を中心に、希望に溢れるものでした。片や、女性の群れは、やもめという厳しい状況のなかで暮らしをなし、唯一の希望であった一人息子をさらに亡くした、深い絶望のなかにある者と悲しみを共にしているものでした。その両者の列が、ナインという町で出くわしたのでした。希望と絶望、期待と失望、始まりと終わり、歓喜と悲しみ、明と暗、すべてのものが対照的な二つの群れが対峙するようにして出くわしたのでした。

 そのとき、何が起こったのでしょうか。「主はこの母親を見て、憐れに思い、もう泣かなくてもよい」と言われたのでした。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止った」のです。もう、泣く必要もないし、この死者を町の外に担ぎ出す必要もなくなったのです。それは、イエス様のこの母親を憐れに思われたことによりました。

 イエス様が、私たちを憐れに思ってくださる、そのことによって、私たちの大きな悲しみは取り除かれます。このあと、イエス様は、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われ、起き上がった息子を母親にお返しになりました。人々は皆恐れを抱き、「神はその民を心にかけてくださった」と神様を讃美しました。