牧師室

牧師のエッセー


11月4日

連盟総会に向けて 

平良 牧師

 日本バプテスト連盟は、バプテスト同盟、バプテスト連合、聖書バプテストなどの諸バプテスト派のなかでも、リベラルな派である。もともと、米国南部バプテスト連盟の宣教師たちの働きによって、日本のバプテスト連盟の諸教会の基は形成されたのであるから、福音派色の濃い教派だったのであるが、リベラルな宣教師たちもかなりいたことや戦後、靖国問題、公害問題、福祉問題など、社会的な諸問題にも積極的な取り組みと運動を展開してきたことなども影響してか、現在のような色合いとなったと考えている。

 ところで、ここ20年近く、日本のキリスト教の教勢は、衰え続けているが、日本バプテスト連盟も例外ではない。日本においては、宗教全般に言える現象かもしれない。こうした宗教離れの現象は、たとえば、葬儀一つとっても言えることで、現在は、家族葬や直葬でひっそりとあるいは簡単に葬儀をすます人々が増えている。連盟もこうしたなか、財政の立て直し、事業体の運営、事務所体制などに関し、いくつもの大きな改革が迫られている。

 使える資金も枯渇してきた。今回の連盟総会は、そういった意味では、理事長の選出をはじめ、常務理事、地区理事、全国理事の選挙など、重要な議案がいくつかあるが、従来と異なり、いろいろな方面で行き詰まりの感が大きく、ある意味では、大きな曲がり角を迎えているとも言える。己の教会もさることながら、連盟のヴィジョンのためにも祈ろう。


10月28日

こだわり続けた人 

平良 牧師

 他の人だったらおそらくどうでもよいことだと思うが、その人には、許しがたいと思うことがある。あるいは、その人にとっては見過ごすことができない、ということがある。どちらもキリスト者だ。Oさんは、私の目から見て、それはまずいのではないかと思われることを幾度もなさった。法に触れることでも、ハラスメントにかかわることでもない。

 ただ、もし、誰もが同じことを行い始めたならば、教会の秩序を保てなくなるのではないかと心配をする。しかし、その人は、正直な方であり、自分に嘘をつくことができなかった。そうやって、妥協せずに、理想とする教会の姿と真実にキリストを指し示そうとされたのだと思っている。

 Bさんは、弱っている人を見ると、見過ごすことができない、そういう人である。自分がどのような状況に陥ろうがかまわないといった感じで活動されていた。この人も、こうしたありようで、キリストを証しされた。二人とも、周りをあまり気にすることのない方々であった。キリストにまっすぐな方々であった。二人とも私と同年代である。そして、先日、天に召された。

 お二人のマネは、私には到底できない。キリストに対して誠実に生きられたお二人であったと思う。私は今、自分の中の、あちらのこだわり、こちらのこだわりが、少しずつ希薄になってきたと感じている。そのようななか、この二人の死は、こだわり続ける信仰者の生き方を再考せよと、私に促してくれている。


10月21日

人のなかにイエス様を見るとき 

平良 牧師

 この私のために、ほんとうに自分のことを犠牲にして仕えてくれる人がいるとき、その人のなかに私はイエス様を見る。その人は、こちらがして欲しいことをしてくれる。それもしぶしぶではなく、快く、願っていることをしてくれるのである。まさに、献身的な行為のように映る。

 イエス様は、人の願っていることを してくださった。病を癒して欲しい人には、そのようにしてくださった。友が欲しい人には、そのようにしてくださった。真理を欲している人には、それを教えられた。イエス様の己を犠牲にしてなさる行為に、人々は神様の愛を感じた。イエス様は、仕えられるためではなく、人々に仕 えるために来たと言われたが、まさにそうであられた。

 私は、つい先日、そのように私のために動いてくださった方の姿を見て、その人のなかにイエス様を見た。心からありがたいと思った。 私は最近とても疲れていると思うことがある。心労をおぼえるときがある。年齢的な衰えもあるのかもしれないが、教会以外の仕事の責任を幾つか負っていることもあるのだろう。そのようなとき、人の親切や情けは、とてもうれしく、感謝で胸が詰まりそうになる。

 これから、私も自分に親切にしてくださったあの人のように、人々に親切にしたいと思う。それは、イエス様の願っていることだと思うから。イエス様の愛を具体的に感じるのは、やはり、人を通してなのだと思った。その人の中に、イエス様が宿っているのだ。 


10月14日

「行第二里」<第二里を行く> 

諸岡 寛 伝道師

 母校の附属中学の校訓に 「行第二里」 <第二里を行く> がある。これが聖書のみ言葉であることを、卒業後に発刊された記念誌で初めて知った。マタイによる福音書5章、山上の説教の41節で 「だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」 の有名な箇所である。

 「命令や義務以上に乗りこえ、自ら進んで善を行い、世のためにつくす精神。そのことが、うれしいから行う、真に人間らしい清らかな精神である。」との説明文を見た時、目からうろこだった。この事を教えてくれる先生は、在学当時は誰もおられなかった。2ミリオンは約3kmなので一里まではないが、この教えを実践することは決して容易ではない。

 この校訓を制定したのは初代校長をされた戸川尚先生で、後に玉川大学文学部長となられる。当時の卒業生で長く福岡選出の代議士をされたY先輩によれば、先生は心体ともに徹底した精神主義教育を実践されたと語っている。

 その頃から続けられている行事に、冬の寒い時期に糸島半島一周約60 kmを歩く遠行会があるが、今でも忘れられない体験で、私の山歩きとウオーキングの原点となっている。


10月7日

的をはずさないですむ生き方 

平良 牧師

 ポイントがズレていると、どのように努力しても無駄であることが多い。時間の割には成果が得られない。罪には、的外れという意味があるが、ちょっと似ているところがある。釣りで、ポイントだというと、そこは魚がいる場所を指す。狙った魚はそこにいないのに、いくら釣り糸を垂れても釣れるわけがない。何時間費やそうとも、無駄である。

 今は、恐ろしい時代で、多くの釣り船が魚群探知機を備えている。だから、その日獲物がなかったということが少なくなった。かつては、船頭さんの経験で、この季節はここらで鯛が釣れるとかといったことを頼りに、船釣りが行われていた。だから、釣果にあたりはずれもあったのである。

 もちろん、いたからといって必ず釣れるとは限らない。魚自体に捕食意欲がなければダメである。だから、捕食活動に活発な時間帯を狙うことなども大切となる。朝夕とか、大潮とかである。けれども、やはりそこに魚がいることが前提だ。イエス様は、漁師たちが夜通し漁をしたが、何も獲れずに落胆して帰ってきたとき、もう一度漁に出ることを勧め、言われた所に網を降ろしてみると、果たして大漁であった。

 ここでのポイントは何か。それは、イエス様が魚のいるところを知っていたということよりも、イエス様の御言葉に従ったということである。罪を犯さないで生きていける人間は誰もいないが、イエス様の御言葉に従って生きていくなら、少しでも的をはずさないですむ。


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