3月22日

コリントの信徒への手紙一 12章 12節〜27節

一つの霊を飲ませてもらった我ら

平良憲誠 主任牧師

 

 福岡地方連合会長のK牧師は、連合の集会で説教をされるとき、「皆さんは、福岡地方連合が好きですか。私は大好きです」、といつも冒頭で挨拶されます。この挨拶を最初聞いたとき、何となく、こそばゆい感じがしました。しかし、何度もこの挨拶を聞くうちに、この会長の善良なお人柄を思うようになりました。

 少なくとも彼は、連合を愛そうとしていると思いました。私は、彼のように善良な者ではありませんが、平尾教会を愛そうとはしてきたとは思います。平尾教会もまたイエス様の教会です。イエス・キリストを頭としている、否、イエス・キリストそのもの、そのようにも言えるでしょう。ですから、私もまた、平尾教会が大好きです。平尾教会が好きだということは、この群れを構成しているひとりひとりが好きだということです。

 今、いよいよ別れが迫ってきて、その思いは強いものになっています。イエス・キリストの体は、たくさんの部分からなっています。どれ一つして同じものはありません。しかし、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」とあります。その一つの霊については、12章の3節の後半に、「また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とあり、同じ聖霊のことを言っているのではないかと考えます。

 教会の兄弟姉妹は皆、神様のお力をいただいて主告白をなし、一つにさせてもらったのです。ですから、誰もが同じ価値を有しています。しかし、教会は、だからといって皆が同じではありません。それは、人間の体が、いろいろな機能を果たす肢体や臓器からできているように、いろいろな働きや役割を担う人々から成り立って います。イエス様の体である教会には、本質的に多様性が求められています。それを保持している教会こそ、キリストの教会であり、我らの教会です。


3月15日

ヨハネによる福音書15章 1節〜17節

イエス様につながり、その愛にとどまる

平良憲誠 主任牧師

 

 イエス様は、まことのぶどうの木です。わたしたちは、その枝です。神様は、ぶどうの木を手入れする農夫です。イエス様につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれます。教会にもぶどうの木があります。鉢に植わっていて、毎年、実をつけます。しかし、すべての枝がそうだというのではありません。枝の中には、幹につながっていても、既に枯れたようになっている枝があり、その枝には実がつきません。

 農夫である神様は「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」というのです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。イエス様につながるということは、イエス様とわたしたちと、双方の思いがあって成り立つことなのだということになります。

 しかし、どちらかというと、わたしたちのイエス様につながろうとする思いがより大事なのではないのか、なんとなくそのように思わされます。ぶどの枝は、幹であるイエス様からの養分をいただいて、生きた枝となり、その先にぶどうの実を実らせます。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。イエス様から離れては、そのとおり、私たちには何もできません。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」。

 イエス様とつながることは、イエス様の愛にとどまることでもあります。ヨハネの黙示録の2章4節、5節には「しかし、あなたがたに言うべきことがある。あなたは初めの頃の愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」。いつの時代も、イエス様の愛から私たちを引き離す力と格闘することが必要です。


3月8日

ヨハネによる福音書14章 1節〜7節

居場所を備えるイエス

森 崇 牧師

 

 コロナウイルスが世界中で恐れられる中、人々の日々の暮らしにも閉塞感が漂ってきました。学校は休校が要請され、各イベントは自粛ムードが漂っています。感染者を増やさないための努力は必要ですが、必要以上に人々の暮らしは恐れと不安とに満ちています。トイレットペーパーなどの買い占めも、そのような社会の不安を現しているのでしょう。

 イエス様は言われました。「あなたがたは心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じな さい」と。いよいよ十字架に向かうイエスの覚悟とは裏腹に、イエスの弟子たちには不安が蔓延していった中での、主イエスの言葉です。27節でも繰り返し「心を騒がせるな、おびえるな」とあり、よっぽど弟子たちの心は荒れ果てていたのでしょう。

 このイエスの「神を信じなさい、そして私をも信じなさい」という言葉を、大阪の釜ヶ崎で神父をされホームレスの方々と共に生きておられる本田哲郎神父は「神を信頼して歩み、そしてわたしを信頼して歩みを起こしなさい」と訳されました。東北の言語で聖書を訳した医師でもある山浦玄嗣さんは、「信じる」という言葉を以下のように言っておられます。「信じる」という言葉のギリシャ語はピスティスであるが、聖書では「信仰」と訳されてい る。しかし、ピスティスは「信じる」という言葉から派生して信用・保障・制約・証明となるように、これは「信頼」という言葉が大本である。この「信頼する」という言葉は、信仰がただ神に向かうのに対して、人に対しても大きな広がりを持っている。

 つまり、神に対しても、人に対しても相手方を信用して、疑う気持ちなく、まかせきりにすること、それが信頼である。「安らかで安心に満ちた身も心も委ねる心、それが信頼である」と言われています。わたしたちが信頼して歩むのは、父である神に、そして人となられた生ける神の子イエスです。そのイエスが、「わたしこそは道であり、真理であり、命である」と言われたのを、今週ともに考えていきたいと思います。主が共におられますように。


3月1日

ヨハネによる福音書13章 12節〜21節

まず主から受ける

平良憲誠 主任牧師

 

 イエス様が私たちを愛しているという実感は、どうやったら味わうことができるのでしょうか。イエス様は弟子たちの足を洗われました。これは、弟子たちへのイエス様の愛を感じさせるものだったはずです。その理由を聖書は「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあるとおりです。

 イエス様の意図は、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わねばならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。互いに足を洗い合う、互いに汚い部分を洗い合う、互いに仕え合う姿勢です。

 これは、愛ある行為です。その人の汚い部分には触れたくないのが心情ですが、弟子たちは、そうであってはいけない、汚い部分こそ互いに清め合う姿勢が必要であるということなのでしょうか。それは、汚いから拒否するというのではなく、その人を赦し、受け入れる行為でもあるでしょう。先生であり、主であるイエス様が、弟子たちの前にひざまずき、一人一人の足を洗われたのでした。それはもっぱら奴隷の仕事でした。ペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。そのときイエス様は、「もしわたしがあなたを洗わないのなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われたのです。

 ここには、イエス様が私たちにしてくださったことに対するこちら側の受容の姿勢の必要性が語られています。それは、イエス様の十字架をどのように私たちが受け取るかを述べているとも考えられます。十字架には、私たちへの神様の愛の迫りが表現されています。


2月23日

ヨハネによる福音書6章 16節〜21節

わたしだ。恐れることはない

諸岡 寛 伝道師

 

 私たちも日々の生活の中で、突然何かが起こり、突然何かが収まるということを経験します。ピンチと思えたこともたくさんあります。何でだろうと思うこともたくさんあります。でも何事も一過性で終わります。ずっと雨嵐ということは無いのです。 ある意味で偶然の出来事かもしれません。この出来事も突然嵐になり、突然それが止んだだけかもしれません。でも嵐は私たちにとって「恐れ」以外の何物でもありません。「恐れ」とは信じることの反対語です。

 そもそも聖書の世界では神の臨在は当たり前で、その神に信頼しているかどうかが問われます。神に信頼しているなら、どんな嵐の中でも恐れることはない。それが「信じること」なのです。どんな人でも「恐れ」はあります。問題は「恐れ」にとらわれて、前に進めなくなることです。あらゆることに尻込みしてしまうことです。「恐れ」は私たちの生き方を妨げてしまいますが、それに打ち勝つ力は神さまを「信じること」なのです。

 マルコ福音書の突風を静める話は、イエス様は舟に乗って寝ておられて、風や湖を従わせ弟子たちを驚かせますが、ヨハネ福音書ではイエス様は湖の上を歩かれ、驚きのあまりイエス様を舟に迎えようとしたら目的地に着いていたと言う福音です。いずれにせよ、イエス様が困難の中にあっても、いつも私たちのそばに寄り添い導いてくださっていることが記されています。それはイエス様への信仰があって与えられる平安とも言えます。


2月16日

ヨハネによる福音書10章 7節〜18節

イエス様は羊の門、良い羊飼い

平良憲誠 主任牧師

 

 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は牧草を見つける」(ヨハネ10:9)。羊たちは、塀で囲まれた安全な場所に、夕方になると羊飼いに導かれて連れて来られ、朝には、再びそこを出て、野原で牧草にありついていたのでしょう。その囲まれた安全な場所の門がわたしだとイエス様は言われます。門というのは、実に大事です。ここでは門の一式を述べていますので、当然、そこについている扉も含めた門を考えるのがよいかと思います。

 現代の建物は、セキュリティーがしっかりしていて、特に集合住宅などは、共用スペースにもかつてのように誰でも入ることができません。門でない所から出入りするのは、盗人であり、羊を屠ったり滅ぼすために来ると言います。イエス・キリストという門を通る羊たちが、守られるのです。そして、毎日、生きるために必要なものをすべて与えてもらえるのです。

 それから、イエス様は、ご自身のことを良い羊飼いとも言われました。「わたしは良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」。この羊飼いは、他の羊飼いとは違い、羊たちを守るために自分の命さえ捨てる用意があります。続けて、羊飼いと雇い人の差について述べています。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」とあります。雇い人は、羊のことを心にかけてないからだとあります。

 また、このようにも述べます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。ここには羊飼いと羊飼い所有の羊との関係が述べられています。それは、羊飼いと羊たちは、相互に人格的な深い関係で結ばれているのです。そして、この羊飼いは、囲いの中に入っていない羊たちのこともまた気にかけています。それらの羊を導くこともまたこの羊飼いの使命です。そして、その羊たちは、この羊飼いの声を聞きわけることができます。


2月9日

ヨハネによる福音書8章 12節〜20節

わたしはひとりではない

森 崇 牧師

 

 今日の説教のタイトル「わたしはひとりではない」はイエス様の言葉です。「なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしを遣わされたかたが、わたしと一緒だからである」という言葉です。

 あぁなるほどと思わされるのは、イエスはひとりではなく、父なる神と共におられるが故に、仮庵祭の最も盛大に祝われる祭りの最中に「だれでもかわく者はわたしの所にきて飲みなさい」と人目を憚らずに叫ぶことが出来たし、今日の聖書の箇所では同じ仮庵祭の終わりの時、まさにクライマックスを迎える光の祭りのその時に、「わたしこそが世の光である」という事が出来たのでした。

 仮庵祭はイスラエルの民が40年に渡って荒れ野を旅した際の神様の守りと導きを記念するお祭りでしたが、この時、昼は雲の柱、夜は火の柱(出エジ40章37~38節)を伴って進まれた主を記念するために、大きな燭台に火を掲げていた最中に、「わたしは世の光である」とイエスは言われました。イエスこそが民を導く希望の光であることを告げられました。世の光という「世」は神に敵対する勢力としての世(ヨハネ3:16) を意味しています。

 世の中で、私たちは孤独を感じざるを得ない時があります。どうしようも太刀打ちできない暗闇に負けてしまいそうになる時があります。しかしイエスが「わたしはひとりではない」と言われたことの意味は、「イエスは父と共におられる」事を指し示すと共に、その見えない父やあるいは神の子イエスや、聖霊も又、神はわたしたちと共におられるというインマヌエルを思い出し、呼び起させてくれるのではないかと思います。あなたは、決してひとりではありません。


2月2日

ヨハネによる福音書7章 37節〜44節

イエス様の招きはすべてに及ぶ

平良憲誠 主任牧師

 

 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた」とあります。ここでの「祭 り」とは、イスラエルの40年の荒野の旅を記念する仮庵(かりいお)祭のことで、巡礼者がテントなどの仮庵 を建てて、7日間祭りを行いました。祭りの期間中毎日、祭司が人々を伴ってシロアムの池から黄金の器で水をくみ、神殿の祭壇にその水を注ぐという儀式が行われていました。

 イザヤ書12章3節の「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む」を水汲みのときに繰り返し歌い、神殿に戻るときにも、また、祭壇の周りを回るときには、詩編118編25節「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」を歌いました。イエス様が、この祭りの終わりの日の最大の盛り上がりを見せるそのときに、立って大声で言われたのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。 

 イエス様が「だれでも」と言ったことに深い意味がありました。エルサレムの神殿の内部には、庭と名のつく色々な場所があり、異邦人の庭、女性の庭、イスラエルの庭、祭司の庭、その奥に聖所がありました。そのように、そこにはあたかも神様から遠い者から近い者へといった順番のようなものも表現されておりました。そして、祭壇までには厳しい入場制限がありました。また、目の見えない人や足の不自由な人は神殿に入ることすら許されないで、神殿の門の前で施しを乞うというありさまでした。さらに、エルサレムの町の中でも、富める者たちはきれいな水を、そうでない者たちは、劣悪な環境のなかで汚い水を飲まざるをえなかったという事情もあったようです。

 ですから、イエス様が「だれでも」と言ったのは、しかも、大声で呼ばわったことは、イエス様の、何としてでも救いの御手を差し伸べたいという切なる思いの表れではないでしょうか。イエス様は、1人残らず救いの恵みを与えたいと願っておられます。